human and environment
3-3. 「田植え歌」と「ほととぎす」
- 環境と文学 -  高阪 薫

 さて、「をかし」の美的価値が生ずる背景にこのような階級分化の実態と彼女の文芸の資質や性向の実態がある。それをそのまま権威付けられて全肯定されると文芸の専制が生じる。清少納言が、むしろ彼女の置かれている階層身分と文芸的資質から発想された言説を逆説的に読みとっていくことで異なる美的価値を見出すことが大切である。有体に云えば、中央、権力、支配、権威、富力等の側にあって創り出された芸術ばかりが、真善美を普遍化しているのではない。地方、非力、服従、無名、貧乏等の側からの芸術もまた真実なのである。こういう文芸の環境のなかで、やはり風流の伝統はまた風流の伝統志向の中で鄙の土着から生じた生活の歌も洗練されて形成され、ある種の美的理念に抽象化され継承されていく。

 さらに、清少納言は鴬が宮中の美しい枝振りの梅の木で鳴くのを「をかし」というが、田舎の雑木林で鳴くのは風情がないという。これなど私たちはもっともだと思わせる文芸的な魔力が働いて美的な価値を与えられてしまっているが、明らかにおかしな偏見である。品を保つ宮中で鳴けばなんでもよいように思わせる権威主義が文芸の美的価値や伝統を形成している。とすれば、こんな美的伝統はやはり押し付けであろう。文芸は、美的伝統にすがってなぞらい、新たな創造がないかぎり、マンネリに陥る。

 清少納言の鼻持ちならない性格が一つの自慢話を作り上げている。有名な話である。

 ある雪の日、炭櫃に火をおこして、女房たちが雑談しているとき、中宮定子は特に清納言を呼びかけ、「香炉峰の雪、いかならむ」と尋ねた。「外の雪景色はどんものか」と聞いたのである。すると彼女はすっくと立って、「御格子あげさせて、御簾を高く上げ」たので、中宮は我が意を得たという風に笑ったという。この有名な話は「『白氏文集』の「香炉峰雪撥簾看」という詩句によったやりとりである。打てば響く才(ざえ)を発揮した清少納言の得意が伺えるのである。このエピソードに示されるように間髪を入れず発揮される教養を誇るのに、当時の文学のお手本は中国の漢詩であった。多くの平安時代の男性が中国の漢詩漢文を己の学問の中心において必死で学んで身分地位を争っていたが、彼女も男に負けずにその知識教養をひけらかすことで、雪を愛でるというよりも漢詩の知識を愛で誇っているところに、彼女の得意がある。遊びと言えば遊びであるが、ここでも外国文学の権威にすがる発想がある。

 「枕草子」は、ある点で文芸の専制的な内容と傾向を持っている。その当時もその後も評価は高く日本文学の模範となっている。しかし筆致にはそれもあっけらかんとした楽天性がある。人間関係のあり方などは問題でない。人の迷惑考えずといったところであろう。権威や自信や矜持に満ち満ちている。そこが面白いのであろう。