棚田での労働は想像以上に時間と労力がかかる。車も機械もなかった時代に山の上に登って急斜面の小さな田んぼを一枚一枚大切に維持して美味しい米づくりに励むことが、いかに大変か一般の人々には理解できない。棚田には農民の苦労と汗の歴史が刻み込まれている。そのような代々千年に渡って続けてきた労働の意味は日本人の性格や民族性或いは倫理的な意味を含めて、精神を形成してきたのではなかろうか。
それは良く言われるように、まずしんぼう強く働くこと、即ち勤勉。そして我慢してつづける努力と誠意。狭い土地から高い収益をあげるための工夫と技術。そのために能率的に計算された田植えの植え方にみる美意識と精密。季節を読んで早手回しに準備する先見性と周到。これらはすべて日本人の国民的特性を形成しているといってよい。それは二千年以上の繰り返された暮らしのなかから継承され、出来上がったと思われる。
(石井里津子編著「棚田はエライ」農文協参照)
輪島白米町 千枚田(全体)
輪島白米町 千枚田(部分)
棚田の稲刈り風景
高洲山の山裾が海に流れ込むような急斜面を切り開いて耕した千枚田は、わずか1町2反あまりの面積に2,092 枚。紺碧の水平線上に浮かぶ七ツ島、そして岩に砕ける白い波頭が千枚田の幾何学模様と調和して一つの景観をつくり出し、国道249 号を往く人々の目を楽しませてくれる。
千枚田を耕作する白米町20戸の農家の人々は土地貧乏に悩み、能登の厳しい地形を米づくりに対する農民の執念から急傾斜地を切り開いて、ものの見事に水田を作り上げてしまった。
彼らの一念は、日本独特の農地パターンを作り、この千枚田にこそ日本農業のすべての歴史がある気がする。一枚の平均面積は1.8 坪であるという。狭い上に1メートル以上の土手に阻まれ、平地の3倍の労力を注ぎ込んで米づくりにいそしむ。その代償は能登の白米の千枚田として、今日良質米として高く評価されており、農民の自信と誇りを感じさせるものである。白米町の地名も、美味しい白米に憧れる祖先の悲願を込めた名前であった。現在白米町は千枚田景勝保存地として、景勝を保護しながら約900枚の田んぼを対象として維持保存のために努力し、また外部からの補助金や協力者を得てこの区域を観光地としても生きた棚田のシンボルとして残そうとしている。
(参考:輪島市観光課「白米千枚田」パンフレットより)