human and environment
1-3.環境と身体
- 環境とコスモロジー 北米先住民の砂絵から - 久武 哲也
私たちが一般的に環境倫理として考えることをアメリカ・インディアンは、人間の身体と、地形や山や森林などの地表の景観とのアナロジー、いわば自分の身体と大地とのアナロジー(類比)として考えます。しかし、アナロジーという言葉だけでは、彼らの考え方を正確には伝えられません。ナバホの人たちは、それを「ビイギスティン」という言葉で表現します。ビイギスティンというのは、本来、「内部の形」という意味です。どういうことがナバホの人々にとって大事な概念なのか。ナバホの人たちが自分たちの考え方の基礎にしているものは、「ホゾ」あるいは「ホチソ」という考え方です。「ホゾ」、これはグッド(good)、つまり良いことという意味です。それを祈りとか歌とかによって強化していくのです。ナバホの人々にとって祈りとはそういうものです。「ホチソ」は、逆にバッド(bad)、悪しきものという意味です。 しかし、ここで大事なことは、ディン、すなわち「悪いものに対して抵抗していくもの」がいつも必要であるということです。人間の身体の不調であるとか、病気であるとか、精神的な失調であるとか、あるいは分裂病的な気質であるとか、そういうものに対抗していく「聖なるもの」、「聖なる人々」、それがディン・ディネと呼ばれるものです。ディネは人です。そして、ディンは、本来「聖なるもの」という意味ですが、これはまた免疫、抵抗という意味ももっています。聖なるものというのは、厳密に言いますと、「悪しきものに対して抵抗していく力」を意味しているのです。これが基本的に大事な考え方です。そして、この「ディン」(聖なるもの)がビイギスティン「内部のかたち」というものと結びついていきます。 私たちは、山肌とか、地肌=アーススキン(Earth-skin)、地肩=アースショルダー(Earth-shoulder)とか、大地のへそであるとか、そういった言葉をふつうに使います。肩、皮膚、へそという身体器官を表わす言葉を大地の地形の表現に使うわけです。山の肌とか、山の肩とか、人間の身体の用語で地形を表現することになります。これをアナロジー、喩、比喩と通常言っています。このように身体で環境を表現していきますと、一つのコスモロジーにもなります。しかし反対に、人間の身体を地形的な用語を借りて表現しますとポルノグラフィーになります。 シェイクスピアの作品の中に、アフリカから来た黒人の女性の召使に、おまえの胸がヨーロッパだとすれば、おまえのへそはヘラクレスの柱だ、そうすると秘部は、アフリカのジャングルだ、というような言い方が出てまいります。人間の身体の体毛がジャングル(密林)であったり、植生であったり、クレバス(性器)から泉(性液)がこんこんと湧いたりするわけです。これが19世紀のイギリスのビクトリア朝のポルノグラフィー小説にまで続いていく描写の仕方です。ポルノグラフィーは、人間の身体の外部形態、たとえば乳房とか、性器とかそういったものを地形用語を借用して記述する方法をとります。しかし、こういったポルノグラフィーにならないのがナバホの人たちの考え方です。自分の身体の内部−たとえば肝臓、腎臓、心臓などの臓器や血管など−を、自分たちの周囲の環境の中に見えている山や川にたとえます。それは、言いまわしとしては、「聖なる山」、「聖なる川」というふうになります。いわば、自分の身体の内部の構造と形態を説明するために地形の用語を用いるのです。 通常、外の世界、あるいは環境を身体から説明する方法からしますと、環境=マクロコスモス、身体=ミクロコスモスという言い方になりますが、これはある種の世界観(コスモロジー)になります。しかし逆に、ナバホの人たちは、私たちの身体の内部(の変調)を説明するために環境というものが必要だと言うのです。それは、キュアリング・アクト(Curing Act)、つまり「治療の行為」なのです。 ランプファーというナバホの研究者は、ターナーのンデブ族のシンボル分析に触れながら、次のように語っています。「ナバホ族の儀礼的な対応あるいは排除するものを考えてみれば、ターナーのンデブ族のシンボル分析とは反対の対応を示している。ンデブ族では、人間の身体的な経験から由来する概念が、自然や人間世界に投影される。しかし、ナバホ族の場合には、超自然的な世界に属するさまざまな概念は、外的な世界を分類するために重要なのではなくて、人間の身体の内部の構造を説明するために大事なのである」と。ナバホの人々は自分の身体(の病気)を解釈(診断)するために世界(外的環境)を必要としているというのです。そこでは、自然というものが人間の身体を解釈(診断)するためのメタファーになっている。いわば、人間の身体が逆に大地化されていくわけです。 こうした投影と解釈の方向の違いは、「コスモロジー」と「治療」の違いでもあるのです。一方の「コスモロジー」は外界の解釈の方法でありますが、他方の「治療の行為」は身体の内部の解釈に向いています。コスモロジーというのは、基本的に人間の身体を外的世界に投影していこうとする発想でありますが、逆に、治療の行為というのは、自分の身体の状態を説明(診断)するために外的世界の構造を必要とするという発想であります。これが「ビイギスティン」という考え方の基本なのです。 世界の内部形態としての身体、私たちはそれをミクロコスモスと言いますけれど、ビイギスティンの考え方では、そうではなくて、人間の身体こそが大地という環境世界そのものからなり立っているのです。それは、血液中の「鉄分」とか「カルシウム」とか「マグネシウム」とかを考えてみられたら、別に不思議ではありません。大地の成分と血液の成分はつながっているのです。それを「ニー」とも言います。環境を説明するのではなく、自分の体を説明する。自分の体が大地そのものから成り立っていると考え、そしてそれを視覚像として描くときに、逆に大地そのものが人間の身体として考えられる、という思考のプロセスをとります。 すべての鉱物、動物、植物に対して、ナバホの人々は、ディン・ディネ、「聖なる人々」という言い方をします。ディンは、免疫、悪しきものを自分たちの体から排除するもの、入ってくるものに対して防御するもの、それが「聖なるもの」、「ディン」、「免疫」という言葉の本来の意味であり、この3つの言葉は本来同じものなのです。 環境倫理というとき、私たちにとっては、この「ビイギスティン」という考え方が大事だと思うのです。内部形態(Inner Form of Body)(身体の内部形態)で世界を説明するのでなく、身体の内部形態を説明するためにそれを生み出した外的世界を必要とするということです。そういう意味からしますと、地母、「大地の母」というもの、つまり「環境を生み出した身体としての母」という考え方がでてきます。それがナバホの人々にとっては、非常に大事なものになってくるわけです。 |