human and environment
3-1. コスモロジーの再確立
   -生きる意味と世界の見方:環境モラル-
- 地球環境問題の解決に向けて - 谷口 文章

A. 古代ギリシアにおける自然観とコスモロジー
 古代ギリシアの時代では、自然は生きたものであった。自然を表わす「フィジックス physics 」はピュシス physis が語源であり、それは「生む」「生やす」「生まれる」などを意味したピュエイン phyein を動詞としてもつ名詞形であり、「誕生」「生長」「生まれつきの性質」という意味をもっていた。自然は、自らの力で動き、産み出す能力をもっていた。そして、人間は自然とともにあった。

 ギリシア語の「コスモス kosmos 」の語源は、本来「秩序」を意味したが、それが「世界全体の秩序」を表わすようになり、さらに秩序ある世界の全体としての「宇宙」を示すようになった。したがって、「コスモロジー cosmology 」は人間が秩序立って生きていく上で不可欠な価値と指針を与える宇宙観であった。


B. コスモロジーの喪失 −世界観と人生観の喪失−
 現代人は生活が豊かになって、かつては共有していたはずの共通のコスモロジーをもつ必要がなくなった。つまり、共通のコスモロジーの下で個々人が共に成長し行動することが少なくなった。そのことは内面において、社会で生きる上で不可欠な自他関係を断絶させ、世界を見る目を狭くするとともに、個々人が生きる意味を喪失することになった。

 さらに、高度情報化社会の到来は、大量の情報の中に、自己を埋没させアイデンティティを遊離させた状態を加速させる。たとえば、パソコンの世界や携帯電話は現実を実感することより、われわれを架空の世界へと逃避させる。自ら自閉的な世界をつくり出すことで、そこに現実逃避しているわけであるから、足が地について生活している実感を獲得していないのである。

 世界観と人生観を与えるコスモロジーの喪失と共通の環境意識を高める困難の原因の一つがここにある。


C. 東洋における自然観とコスモロジー −生成・流転・消滅する「気」の思想−
 東洋の環境思想は、いまだ生きる上でのコスモロジーを保全しているといえよう。

 自然観をめぐる西洋と東洋の考えの原理的な違いは、前者が自然を人間と対立するものと捉え、あらゆるものを実体として考えて「固体」化するのに対して、後者では、自然と人間はいわば“気”の流れの過程として、すべては「気体」のように変化すると捉え、永遠に変化しない普遍的な実体を最初から拒否していたことにある。

 こうして東洋の思想には、生成、流転、消滅するこの世界では、固定しているように思える実体は“気”の流れが離合集散して一時的に形が形成されたものにすぎない、という考えが共通してある。さらに気の流れの過程において、人間も自然やその他のすべてのものはつながっている、という「共生」の考えも根柢にある。共生には、場を共有している考えが大切であり、東洋思想には「場という枠組み」を与え得る理論が示唆がされていよう。

 こうして、西洋的な論理的分析と東洋的な場の思想を統合する考えは、環境が自ら生成、流転、消滅すると同時に、環境と相関する環境主体(生命)も自己生成するという、「自己組織化」の新しい環境論理につながっていく。


D. コスモロジーの再確立に向けて −地球環境契約−
 東洋思想が示唆する自然観は、現代人が必要とするコスモロジー(宇宙観=環境観)のモデルを具体的に示しており、日々の生き方としての魂の故郷であるとともに、どのように生きるべきか、どのように死んでいくべきか、という指針と価値観を与えるものである。
 それは、改めて、現代の汚染された地球環境において、人間がどのように自然と接するべきかを教える。地球環境破壊が進行しつつある現代こそ、このような環境観を表わす“コスモロジーを再評価”して復活させねばならないであろう。

 このような現代的コスモロジーの下においてこそ、世代間倫理の問題解決のために、拡張された「“一応の”権利−義務」図式、別言すれば、地球環境を守るための世界市民による「地球環境契約」が成立し得るであろう。


E. 環境モラル
 環境モラルとは、理論的な環境倫理学の枠組みによる日常の社会的な道徳規範、すなわち身についた生活習慣のことを示す。
 逆に言うと、広汎な環境モラルや実践活動を、学際的なレベルでの環境倫理学の議論にのせていくことによって、共通の場での討論が可能になり、個々の活動に安定した広がりがみられるようになるであろう。

 この意味で、ある理論的枠組みが必要となる。環境倫理学は、精緻であるよりも、多様な価値観による取り組みを統合するような一定の枠組み、またはゆるやかな規範であることが望ましい。それは個々人が日常の実践のなかにおいてその都度作り上げる、生きた環境モラルを作り上げる地盤となる。このモラルは、その人が身に刻んだ実践的知識であり「知恵」といえよう。

 その知恵は、日常生活において現代人の権利と義務においては、等身大の欲望にしたがった「消費者倫理」の規範と持続的社会を実現するための「ライフスタイルの変更」を前提とした社会的レベルの行動を指導するものとなろう。

 たとえば、4つの部屋があるとすると、夜に半分である二つの部屋の電気の節約は無理としても、4つのうち1つの部屋の電気を消すことは可能であろう。それに慣れれば、その残りのうちの4分の1を節約して、共通感覚が健全である限り可能であるような「徐々に等身大の欲望に近づける」ライフスタイルへの変更に努力しなければならないであろう。

 さらに、環境モラルでは、具体的な世界観だけでなく、生き方の問題、すなわちその人が持っている可能性をどこまで伸ばしていくのか、という個々の人生観の問題が関わってくる。それは、日常の環境世界において身に刻んだ価値観より生み出される。そしてそれは、個人→社会→国→地球への拡がりをもつと同時に、地球→国→社会→個人へともどる循環的な運動へとつながるであろう。

 こうした環境倫理学の確立によって、具体的な個々人において実行可能な規範が環境モラルとして展開することになる。そのような環境モラルを身につけ、実行できる人が環境教育がめざす人間像ということになろう。すなわち、人々が環境モラルにしたがって生きることは、現代的なコスモロジー(宇宙観=環境観)を守って生きることでもある。